久しぶりにたくさん教育本を買って読めている。
自分には、あとがきとかコラムとかから読んでいく癖がある。
内容はもちろん大事だけど、
コラムを読むと、その著者の人となりがなんとなく見えてくるから。
本を作る側になって考えてみたら、たしかに、コラムは主な内容からははみ出るけど、自分がぜひ伝えたいこと、エッセイのような部分、だからこそ、著者の素直な気持ちが表れる気がする。
コラムを読むと、著者に会いたくなる。
久しぶりにたくさん教育本を買って読めている。
自分には、あとがきとかコラムとかから読んでいく癖がある。
内容はもちろん大事だけど、
コラムを読むと、その著者の人となりがなんとなく見えてくるから。
本を作る側になって考えてみたら、たしかに、コラムは主な内容からははみ出るけど、自分がぜひ伝えたいこと、エッセイのような部分、だからこそ、著者の素直な気持ちが表れる気がする。
コラムを読むと、著者に会いたくなる。
今年の2月くらいにエッセイ執筆の授業を初めてしたときに、詩の創作との関連性を見出した自分に驚いた。
そう言われてみれば、詩人もよくエッセイを書いているし、よく考えたら詩だけではなくて、小説家もエッセイを書いている。
詩と同じで、一応の定義はあるけれども、「エッセイとは何か」と言われると難しい。
自由に、とか、その人なりの文体で、とか、個人が立ち現れる前提で書かれるのがエッセイなのかもしれない。少し、詩みたいだ。
だからこそ、エッセイというのは、創作の種なのかなぁと。
ぐるぐる回っている考えごとがエッセイになって、個人の輪郭を読者に見せる。
昨年夏だったか、詩集の即売会でご本人とお話ししながら購入した、詩人・長尾早苗さんの『どしゃぶりの日の傘』というエッセイ集を久しぶりに取り出して読んでみたら、付箋紙が貼ってあった。買った当日に電車の中で読んで付箋紙を貼ったんだ
36ページに貼ってあった付箋紙。
「詩は「あえて書かない」ことを選択する文芸だと思っていて、エッセイは「あえて書きすぎる」ことを選択する表現だと思っています。だからこそ、詩で書けなかったことを毎日エッセイで書くことで何とか自分を保っていました。」
辛いことが重なって、その時にエッセイを書いて書いて書きまくっていた、という文脈での言葉である。
詩とエッセイの棲み分けを言語化してくれているような、そんな部分だ。
自転車を漕ぐ帰り道
一方通行の十字路を右左右して
平屋の豪邸の前に来ると
必ず君は
「今日保育所たのしかったの?って聞いてよお」
と言う
自転車を漕ぐ行きの道
まっすぐ行った突き当たりの十字路が見えてきて
手前の駐車場の前に来ると
必ず君は
「黄色いクルマ、キレイだねえ」と言う
子育てのルーティーンは
急に終わり
別のルーティンがやってきて
こないだまでのルーティンがなんだったか
忘れてしまう
これを書いている数日
もしかしてこのルーティンは終わってしまうか?と考えながら送り迎えをしたら
昨日と今日
君は何も言わずに通り過ぎたよ
きっとまた忘れてしまうから 新しいもの、よろしくね
福介が着実にaikoにハマってきてくれている。
最近では、自分=aikoさんだという設定になってすらいる。
aikoさんと呼びかけないと返事をしない。
保育所で、aikoさんに来て欲しい、と連呼していたため、先生たちは妻の名前がアイコだと思ったほど(違うと判明したとき、みなさん素で驚いていらした)
曲名のタイトルも驚きの速さで暗記して行く(ゴールデンタイムか)
cry high fly は結構難しいものの、
クライフフフライ聞く!
と、なんとか発音している。
でも、歌詞を覚え始めたら、
ぺしゃんこのやつ!
と言い始めた。
…たしかにね。童謡にぺしゃんこ、というWordはなかなか出てこないかもねえ、、、
〉cry high flyはこっそり ぺしゃんこな今にぴったり
幸せは分けられるほど 今手元にない
改めて読むと、今 が2回も出てきてるんだね。
ぺしゃんこな今だから、分けられるほどの幸せは手元にない、ということか。
以前、詩集即売会に赴いた際、詩人の広瀬大志さんご本人と会話することができた。
自分がいいなと思うものは、積極的に授業に取り入れたいと常々思っている。
そこで、「いつか授業で使いたいです」とお伝えしたら、驚きながら、どうぞどうぞとおっしゃってくださった。一番学校の授業からは遠いと思ってます、教科書に載ることはない類のものだと…
という旨のこともおっしゃっていた。
教科書の詩教材は、紙幅の都合もあるか、収録数が少ないともいえる。
さまざまな作品に出会うために、さまざまな詩を紹介したいし、いまはICTも整備されたから、紹介の仕方も幅広くなっていくだろう。
生徒たちの個性が、詩の個性、詩人の個性に共鳴し、ピタッときたときにはじめて、生徒はほんとうの意味で、詩と出会える気がするから。
他のジャンルは、どこかで教材にできるかも?みたいな視点でプライベートでも読むことがあるけど、詩については、教材云々以前に、もっと色々な詩を読みたいと思っているから、自分にとって、素直な気持ちで読み、素直にいいなと思ったものから、吟味はもちろんするけど、あまりストッパーをかけずに、幅広く教材にしていく、そんなことをしていきたい。
復帰に向けて、急に道徳熱(決して、熱意ではないような気がするが…)が。
最近本を買って、ハイスピードで読んでいる(スキマ時間でも読めるタイプを選んだ)
かれこれ10年くらい前?に教育実習に向けて買った水登先生の道徳の本が自分にバッチリはまり、それ以降、書籍としては買い足してこなかった。
今回買ったこちら
中心発問で拡散させて、深化発問で収束させて行くという部分とか、一番自分が悩んでたから助かる。
ただ、「なんか、議論などに時間をかけた素敵な授業デザインだけど、授業時間足りないような…?」と思っていたら、
100ページにある、
初発の感想を事前に集めておくために、「必然的に教材は事前読みとなります」「この活動を行う時間を確保することも重要なポイントになります」というところで、あれ?事前読みが前提?となってしまった。
やろうとしたら、できなくはないんだろう。でも現実には、教材を先に読ませて、感想も書かせて、、は難しい。事前アンケートですら、いくつものハードルを越えなければできない状況である。
小学校とはまた状況が違う部分もあるし、、
ライティングワークショップ実践が、小学校と比較して中学校では明らかに少ない理由に時間割の柔軟な変更ができるかどうか、があるが、それと同じことだなあ。
決して批判ではなくて、じゃあ、いまの自分の学校実態でどういう折衷案を生み出せるか、自分のアイデア出しにかかってるなあ、という雑感です。
大学生の頃、明治図書などの教育書を買うのにハマっていた。
まだ見ぬ現場への憧れだったのか、心の中でだけでも働き始めたかったのか。
本を買うと、必ずアンケートハガキが挟まっていた。
ついぞ投函しなかったけど、途中まで書いたハガキがあったりして、数年ぶりに本を開いたらそれが挟まっていたり。今よりも字が汚いなあ。
それでも、昔の自分のやる気を感じるし、やる気が形になって挟まってる。
で、今回買った本にはアンケートハガキがないなとふと気づいて、パラパラしてもなくて、なんだか悲しいなと奥付けを見たら、アンケートはQRコードでした。
コードじゃ、忘れられた押し花のようにはいかない。
キレイなまま残したくて作ったのに忘れられた押し花は、黒い絵の具を混ぜたときの色になって姿を見せるが、そのときの、キレイなまま残したいという思いを痛いくらいに語りかけてくる。
だから、もう抱けないあの頃の思いを確実に残すためだけに、書きかけのアンケートハガキは書きかけのまま、また挟んでおくのだ。