みなとみらいの電飾さん。

国語科に関することを書いています。詩も投稿しています。ほとんど備忘録ブログです。

全国大学国語教育学会公開講座Ⅱ「詩の書き方は教えられるか~第1回 詩創作指導の実践とその歴史から(2020/11/1)」感想

コロナの影響でオンライン開催となった、今回の「全国大学国語教育学会」。

「ラッキーディップ」という手法を詩創作ワークショップもオンライン上でおこなわれた。ずっと楽しみにしていた!以下、簡単に備忘録。

 

1)ラッキーディップ

自分で作った詩なのに、自分で作った詩ではないような感覚に陥る。ゲーム感覚でできるが、創作後に「解釈」(=他の詩人が書いた詩のように読む)ができるかどうかで面白さ(満足感?)に差が出るだろう。創作の実践というよりは、解釈の難しい詩を読解する実践に近い。実践の目的が、「生徒と詩の距離を近くしたい」だとしたら、面白さは外さないようにしたい(理想論かな)。たとえば、帯単元とかで、いわゆる「意味が通らない詩」を色々紹介して、解釈する練習を何回もしてから実践するとか?

 

2)後藤先生に会いたい!

指定討論者の後藤和彦先生(和歌山県の中学校国語の先生であり、詩人)。実践者として、文字通り多種多様な詩創作活動の実践をしてきている。その根底に流れているのは、「子どもたちのもつ詩のイメージを拡張したい」という熱い想い。ここにとても共感。

自分も、初めて本格的に詩に触れ始めた23のとき、詩に対するイメージがグワっと拡張された感覚があったから、あの新鮮な驚きを中学生の頃に体験できるなんて、後藤先生の生徒さんは幸せ者だなと思う。「え、こんなのもあるの!?」「これ面白いなあ!」「詩の定義って曖昧なんだなあ…」などなど…。真似したいと思ったのは、「口語自由詩成立までを、クイズ形式で通史的に学ぶ。」実践。そうそう!日本の詩って、独特なんだよね。口語自由詩が一般的になったからこそ、定義が曖昧になり始めた。私としては、「教室における詩創作活動」という枠の中に限っては、詩の定義が曖昧なことをポジティブに捉えたいと思っているから、この実践いいなと思う。歴史を知ると「日本の口語自由詩はすごいんだな。」と実感できる。

あと、詩創作の実践をすることで「子どもたちの言葉の可動域を拡げたい。」ともおっしゃっていた。それな!!!!!!言葉の可動域が狭くて、日常生活でも困っている生徒、いっぱいいるよね。今回のような「ラッキーディップ」や「のはらうた」の実践などでは、詩という芸術の文学的意味を深くとらえることはできないかもしれない。でも、言葉遊びの海に浸かっているうちに子どもたちの言葉の可動域が拡がったら、それはそれで「詩を教室で書く意味」になると思う。

 

3)創作活動における授業者は、何者?

ワークショップ後の研究討議で、「後藤先生は自身の詩人としての熱を抑圧して授業しているのではないか、もっと解放してもいいのでは?」と指摘されていた。たしかに、プロの詩人であり、自分たちを毎日見てくれている人物が教室にいてくれるのだから、子どもたちにとってはそのほうがいいのだろうなあ…とは思う。

一方で、後藤先生は実際に詩を創作し続けている「作者」だからこそ、子どもたちに対して、自分の「詩人」としての顔を見せすぎないように気を付けているのではないかなと私は思った。だって、「先生」ってものすごく子どもたちに対して権威を振りかざす仕事だなって思うんだよな、良くも悪くも。だから私だったら、その作品の唯一の「作者」として子どもたちが存在できる「創作活動」の時間くらい、その権威を手放しておきたい…と思っちゃう(もちろん「指導しない」「声かけない」とかいう意味ではなく)。すっごくモヤモヤしたもんだから、後日改めて動画を見返した。すると、後藤先生は自分の実践を語るとき「私は生徒に、○○というアプローチをしてみました。でも、それが、生徒が詩を作るときの阻害要因にならないようにしなくてはいけないんですが…」(要約)という言葉を何度も発していた。あー、わかる!アドバイスしている最中も、彼らの創作活動を阻害してないかなあって思っちゃう。これ、創作に限らないな。作文とか意見文書いてもらってる時の机間指導でも同じ気持ちなんだけど、創作、特に「詩」だとすごく思っちゃう。まして、自分が「詩人」として活動している後藤先生なら、なおさらなんじゃないかな…まあ私の勝手な想像ですけど…。だから、じゃあどうすればいいの?と言われたら、私もまだわからないですけど…。

 

4)評価と評定は違うのでは?

途中、「詩創作の実践をする際に、評価で悩む」という話題に。ここでは「評価」という言葉をそのまま「評定」に結び付けている人とそうでない人の価値観の相違が浮き彫りになった。というか、「評価」という言葉の範囲が異なると、だんだんと話が噛み合わなくなっちゃう。「評価と評定は違うじゃん!」って。「評定に加味するために数値化するときの方法論と、作品を書いている子どもたちにどんな言葉をかけるかに関しての方法論は違うじゃんか!」って。

 詩創作活動の評価に関する議論では、「生徒が書いた作品自体の質をどうやって評価するのか」という話題が必ず出る。私は「評定に加味するために、作品の質を点数化することはできない。」という立場。「あなたの詩は0点」なんて宣告されたら、たぶんその子は今後の人生で詩を書かないと思うし、「あなたの詩は10点満点」と褒められてもなんだかモヤモヤしそう。詩創作の授業する意味なくなっちゃうと思う。

 あと、この議論がいつも空中分解しやすい要因の一つに、「単元の目標はなに?」という視点が出にくいことが挙げられるだろう。詩創作活動は「言語活動」であり、単元の中でそれがどのように位置しているのかという文脈を抜きにして、詩創作の評価云々、評定云々は語れないと思う。「作品の質をどうやって点数化するのか」という議論になりがちだけど、そもそも「作品の質」を求めて単元を設定しているの?という疑問。プロの詩人を育てたいわけじゃないのに??という…。

※たとえば、「色々な表現技法を身につけよう」という単元だったとして、表現技法を身につけるために、表現技法を使った詩を書く言語活動が設定されているとする。さらに、授業者が「○○という表現技法を使って詩を書く」ことを条件にしたとする。そのような文脈なら、表現技法が使えているかどうかを数値化して評定に加味する材料にすることは可能だと思う。「詩を書いて、詩についての考えを作文に書こう」という単元だったら、詩を書いて提出できたらB、提出された中でB+とAを分類して、できなかったらC、Cの子には指導で手を差し伸べる、詩についての考えを書いた作文の条件設定で数値化する、などなど。

 

5)後藤先生の評価観を推察してみた。

 後藤先生が、ある生徒が書いた詩へのコメントを一瞬だけ画面に提示してくださった。あのコメントが読みたかった!コメントって、詩を書いた側からすると、やっぱりうれしいものなんだよなあ。また、「その場で作品の評価的な言葉は言わないような感じで、むしろ他の参考になるような、モデルになるような作品を見せていくという感じでしょうか?」という参加者からの質問に対して、「やっぱり一生懸命書いたものなので、強制的なものは阻害要因の一つになるかなと思っているので、アドバイスというか、参考にという形で、推敲(を促したり)している」とおっしゃっていた。

後藤先生は、その子がなんとか作品を書いてみて、「ああ、詩ってこういう感じなのかな」「反復っておもしろいねえ」と学んでくれたらいいな、ということを見越して、アドバイスしてるのかなと思った。ここでの「アドバイス」は、いわゆる「カンファランス」に近くて、これが創作途中で行える「評価」だよなあ、と。どうやって数値化しよう、と考えて詩を「書かせる」(あえて「書かせる」と表現したけど)くらいなら、詩創作の授業は、やらなくていいよなあ。

 

 あー楽しかった!色々考えられた!参加できてよかった!