みなとみらいの電飾さん。

国語科に関することを書いています。詩も投稿しています。ほとんど備忘録ブログです。

「大村はま記念国語教育の会」感想

2021 11 14 Sun

石川台中学校へ。前回参加したときはまだコロナ前だったなあ…。

 

1 黄金の椅子

大村はまが教室で用いていた「素朴な一脚の椅子」。

「監督ではなくて、子どものそばへ、れいの「黄金の椅子」を持っていって、座って、いっしょになって話し合う。いつのまにかすうっと消える」「そういう共演者として子どもの前に立つという意味では、教師はシナリオライターでもあり、役者でもある、子どもたちの仲間として。」(倉澤栄吉)

本物を見ることができてうれしかったなあ。

 

2 ことばに気付く感度を上げる

阿部千咲先生の発表内の言葉。何かを読んだり見たりしたときの素直で直感的な「すごい」「すてき」「きれい」、リアルで純粋。でも、もう一歩上に。自分なりの言葉で語れるように。どの単元の発表からもこの思いが伝わってきた。まっすぐに実践すると、自分のような完全な他人にも、授業者の思いが伝わるんだなあと思った。

自分に置き換えると。鑑賞文の授業ではそういう実感あった。「好き」をどれだけ広げた言葉にしていけるか。「好き」の中身や感覚は本人にしかわからないので、それを探っていくのがこちらの指導だったし、「自分なりの言葉」に昇華していけた子も多かった。授業の準備として、その「自分なりの言葉」が出てくるように仕掛けていく準備が必要なのだろうなあ。鑑賞文の実践、どこかで振り返ってまとめてみよう。

 

3 エリオットアイスナー

甲斐雄一郎先生より。創作活動のモデルには入れてないんだけど、うーん、やはり理論としてはアイスナーの理論なんだよなあ。

 

4 甲斐利恵子先生の話

コロナ禍の教室実践からというテーマでの講話。利恵子先生の語りを聞くと、いつも本当に元気が出る。明日も頑張ろう、少しくらい無理してもいいから授業準備を気の済むまでやろうと心から思えるし、実際にそのエネルギーが湧いてくるからありがたい…。そして、利恵子先生が生徒の具体的な姿を語る場面の声を聴くと(比喩ではなく)反射的に涙が出てくる。スピッツの「群青」のサビの一行目を聴いているときも同じことが起こる。ピンポイントなんだよね。だから、お二人の声で泣いている最中はいつも、「ああ、涙って理屈じゃないんだなあ…」と思うのだ。

・仕事上関わったタブレット関係の方の国語教育観が「わかりやすい授業」「効果が目に見える」「簡単に操作できる」だったことに「えーっ?違うんでは?」と思った、というお話。共感。難しいからこそ頑張れる、わかりにくい課題だけどなんとか取り組んでみよう、そういうときに力が付くと信じているから、その準備をするために働き方改革してほしいのであって、別にそういうソフトを導入してハイ終わりではないのです。

タブレット授業が終わった後に、「発言してなくたって精一杯考えているような生徒の姿が思い出せなかった」ことに愕然としたというお話。共感。タブレット授業何回かしたけどね。本当に、まず隣に行ってノートを読んだり、話したりできないだけでもものすごくストレスだったもんね。そして、発言したこの顔は思い出せる、って、その通りだった…。「学びが蓄積されていく、その子の学びの物語が。教師として、その物語が見えないということはこんなにも…」という言葉も。