みなとみらいの電飾さん。

国語科に関することを書いています。詩も投稿しています。ほとんど備忘録ブログです。

埋もれる言葉~「国語科における話し合い指導のためのジグソー法の活用」河野遼(2020)

1.出典

 河野遼(2020)「国語科における話し合い指導のためのジグソー法の活用」

 『人文科教育研究』第47号,pp.49-60

 

2.論文の特徴

  新型コロナの影響で、「話し合い活動」を授業内で行うことがそれほど多くなかったこの1年。昨年度の今頃は、「話し合いの手引き」なんていう台本形式の手引きを作って、話し合いの型を伝えよう、定着させていこうなんて思ってたけどなかなか。「読むこと」の指導法として論じられることの多かった「ジグソー法」を、「話す・聞く」の視点から検証しているところにこの論文の特徴がある。

 

3.感想 

〇「話し合いが苦手な生徒に焦点を当て」るという視点について

毎日の授業、「班で話し合いましょう」は些か抽象的な指示なので、「自分の感想文をまずは音読して、一人ずつ感想を言いましょう」くらい具体的に指示しようと心掛けている。が、なかなか。そのなかで、「話し合いが苦手な生徒」に目を向け、助け舟を出していこうと常々思う。

「話し合いが苦手な生徒」には、「言いたいことはあるけど言葉にならない、できない生徒」「言いたいことが見つからない(前段階の指示の理解が不十分)生徒」「メンバーとの関係性が影響して思った通りに発言できない生徒」などさまざまなパターンの心情があると思うが、この論文では「言いたいことはあるけど言葉にならない、できない生徒」「言いたいことが見つからない(前段階の指示の理解が不十分)生徒」あたりに焦点を当てているのかなという印象。そういう生徒たちにとって、「ジグソー法」がどのような効果をもたらすのかな、というリサーチクエスチョン。「指導方法」の選択の際に読み返したい。

 

〇「話し合いができない」は日常生活にかかわりそうで…

ひざを突き合わせて話そうとしてもいざ目の前に相手がいると話せなくなったり、会話が続かなかったり。自分自身がそんな傾向がある。あと、生徒たちもデジタルネイティブなので。そういう時代になってきてるから。だからきっと、授業の中でやっていかないと生徒も自分自身も、身体に染み込まないのかもなあ…と思って、このタイミングでこの論文が読めてよかったと思っている。

 

〇「話し合いが苦手な生徒」への寄り添いが伝わってくる

 授業を日々行う中で、生徒の言葉が埋もれていくのを止められなかったり、自分が埋もれさせてしまったり、そういう経験が増えてきて、もどかしい。そういう中で、この論文が読めたことはすごく大きい。「言いたいことがあるけど自分一人の力では無理、黙るしかない…、でも言いたいことはやっぱりある、でもうまくその場に参加できない…」そういう生徒の葛藤と諦めの日々に著者が寄り添っているからこそ、「じゃあジグソー法を使ったらどうだろうか」「発話量や発話内容はどうなっていくかな」という「切実なリサーチクエスチョン」が生まれたんだろう。

 ジグソー法は、「話すべきことをもっている」「その人しかその情報をもっていない」状況を作り出せる。話し合いが苦手な生徒の言葉が埋もれてしまうのは、その人以外の「だれか」が代わりを果たせる状況があるからだ。もちろん、個人の考えは個人のものであって、本当の意味で「代わり」にはなれないんだけど、「あ、あの人俺と同じこと言っている」となった瞬間に発言できなくなったり。意見を述べるとき独特の、「同じ」への拒否感というか。自分も授業で、同じ問いに対して全員を指名することがあるけど、「同じだったら同じですって言ってね。でも、一文字でも違ったら同じですって言わないでね。」と、変に意識して指示出しちゃったりすることもあるけど。そういうところを勝手に乗り越えて、「○○さんと同じ意見です。理由も同じです!○○さんはどうですか?」と言える人はたぶん「話し合いが得意な人」なんですよね。「話し合いが苦手な生徒」は、そうじゃないから、つらい。

 

4.まとめ

 日々授業していると、生徒の姿から思い浮かぶ「切実なリサーチクエスチョン」がたくさんあるのだが、忙しさを理由に記憶から消えてしまうことが多い。この論文を読んで、そういう「切実なリサーチクエスチョン」を、(すぐに取り組めなくても)蓄積する努力をしなきゃと思った。だって、やっぱり生徒には、国語の授業楽しいって思ってほしいし、そう思って実践してもらうことで力をつけてほしいと思うし。そのためには、まず自分が「良い聞き手」(p.59)として生徒の前に存在していたいね。