みなとみらいの電飾さん。

国語科に関することを書いています。詩も投稿しています。ほとんど備忘録ブログです。

「一部の学習者に引っ張られる授業」の回避

石原雅子(2022)を読んだ。

書き換え学習の機能の一つとして、青木幹勇1986を引き合いに出しながら、

一部の学習者に引っ張られる授業や、発問依存の授業の回避

という機能が提示されている。

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自分は他教科を教えたことがないからイメージに過ぎないけど、国語科の特色として、生徒の言葉、というか、ある意味での生徒のパーソナルな部分を表出してから授業が動き出せる感じがあるのではないかなと感じて毎日授業している。生徒自身が、理科が得意、社会が得意、数学が得意…というときと、国語が得意、というときに、なにか質的な意味合いの相違がある気がしてならない。社会についての知識があるから授業で活躍できて、自分は社会が得意だ、と自己認識している生徒はよく見かけるが、漢字をよく知っている生徒なのに=国語が得意と言う生徒はあまり見かけないような…?

 

 

創作でしか教えられないことは何か。

創作学習でしか学べないことは何か。

の問いに迫る時、

創作学習が授業の質的向上、授業観の転換に寄与できることは何か

という視点も持ちたい。